国語という分野は勉強においてついつい後回しにされがちです。やっぱり英語とか数学のように、やればわかりやすく成果が出る科目に目が向きがちです。
でも、いろいろ教育と勉強について考えた末、国語こそが最も大事な教科なのでは?という考えに至ったので、今回はその根拠について簡単にお話できればと思います。
トレーニング方法についてはまた別記事で紹介します。
どんな勉強も読解から始まる
まず第一の根拠として、「どんな勉強も読解から始まる」ということが挙げられます。
どういうことかというと、皆さんが勉強するときのことを想像してみてほしいのですが、新しい知識や考え方をどこから学ぶでしょうか?
- 教科書・本
- 授業
- 人の話
- 実体験
だいたいここらへんになるではないでしょうか。そして実体験からの勉強は別として、その他のものは例外なく「読解」から学びが始まるのです。
本に書いてある文も、授業で出てくる説明も、近しい人に聞かせてもらった話も、その多くは文章により成り立っているのです。
つまり、文章の理解を正確に行うことができなければ、基本の学習効率は、ほとんどの場面で格段に下がってしまうのです。
そして、このはじめの読解をずれておこなってしまうと、無自覚のまま理解したと思い込み、時間差で気づくという悲劇も起きかねません。
思考は言語を媒介にして行われる
第二の根拠として、 思考は言語を土台にして行われる 、ということが挙げられます。
精神医学でいうところの思考の定義は、「言語を媒介として行われ、目標に向かい概念が次々に想起され、論理的に連結され、事実に即して判断および分析され、問題解決がなされる精神活動」と表現されるのですが、定義の時点で既に「思考は言語を媒介にする」とはっきりと明示されているんですね。
では、言語を持たない動物は思考をしないのか、という疑問を持つ方もおられるかもしれません。
答えは「NO」であり、たしかに厳密にいえば言語を持たない動物も思考をしているとはおもいます。
しかし、人間のいう言語の特殊性はその応用性にあるのです。
例えば、「あそこの大きな木の下に子供がいる」という文章があったとします。
この文章は「あそこ/の/大きな/木/の/下/に/子供/が/いる」という複数の単語に分解可能なのですが、この単語というパーツの組み合わせで無限の意味を表現できるというところに人間の思考の特殊性があるのです。
たしかに犬やイルカもコミュニケーションはしていると思います。しかし、音のパーツを組み合わせてもともとの意味の数百倍のレパートリーを作ることはできません。
話がそれつつありますが、要は「人間は言語という存在により、複雑で抽象的な思考が可能になっている」のです。
複雑で抽象的な思考が、言語に支えられている以上は、言語の習熟度や使いこなしが思考の深さに影響するのは言うまでもありません。
これが第二の理由です。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は国語が勉強に欠かせない理由を紹介させていただきました。
まとめると以下のようになります。
- 勉強に読解は必要⇒読解に国語が必要
- 思考に国語が必要⇒深い思考のためには国語の習熟が必要
後回しされがちな国語が、なぜ大事なのかわかっていただけたでしょうか。
もうちょっと掘り下げた話はまたいずれさせていただきます。